a hacked mobile phone came across the wall

ハッキングされた電話機の物語 (未完)

 旧西ドイツ国内において公衆電話回線のメンテナンスで専門技術者が使用していた通信機材。通常は開通試験などで住宅やビルの回線引き込み設備に直接接続し、基地局と通話するために使う。しかしこの装置には、内部の電子回路に何者かが手を加えた痕跡がある。改造状態で使用すると、第三者による傍受を避けることはできないものの、端末のIDを基地局側で特定することが困難になり、どこからどこにかけているのかを調べるために非常に長い時間を要する。バッテリー動作するので接続場所を転々と変え、探知者の手から逃れることができる。使われた電子部品の種類から、旧東ベルリンに暮らす人が改造した模様とのこと。東西ドイツ統一後、ミュンヘンの電子機器ジャンク・ショップに流出した。

 

 1961年の夏から1989年11月10日までの四半世紀以上にわたって東西冷戦構造の象徴としてベルリンを分断していた壁を、東側から自由を求めて越えようとした人はおよそ1万人。そのうち3000人が未遂に終わって捕らわれ、192人が国境警備隊の狙撃で命を落し、5000人超が壁越えを果たして亡命。このハッキングされた電話機は、壁の向こう側で、壁を越えようとしなかった人々のあいだで、どのように使われたのであろうか? そもそも西側の電話事業に携わる職業人しか接しえない特殊な道具が、誰の手でどこから壁を越えたのか? 技術的にひとつだけ確かな事実がある。それは、この装置が最小限2台そろえば、壁をはさんで東西の市民が自由に会話を楽しめたということだ。つまり、5000人にカウントされない何人かの東ベルリン市民が、身体の越境こそできないものの、精神の自由往来を電話ハッキングによってなし得ていた可能性がある。

 電話ハッキングは、携帯電話時代の現在でも様々なかたちで情報通信技術の裏面史を綴り続けているが、東アジアの地域で最初にそうした行為が露見したのは、おそらくベトナム戦争の戦場であろう。アメリカ軍と南ベトナム軍の軍事電話網が、MITや工科系アイビーリーグ出身の若い有能な兵士によってハックされ、フリー・ライン化されてしまったという話は当時からあった。各国の通信社やマグナムのカメラマンが競ってメコン・デルタの泥濘に向かい、南下する共産主義に対して民主主義の砦を築くという欺瞞を映像で暴くその速度をはるかにこえて、前線の青年たちは、ハンドトーキーなどの無線式電話からわが身の不遇と恐怖と無力感を、故郷の人々へリアルタイムで伝えていた。「お母さん教えて、あなたの息子は誰のためにここにいるの」? 次の瞬間、大学のクラスメイトでもある戦友の頭が、ベトコンの機銃掃射で砕け散った…40年前、両親や友人や恋人が電話口で録音した悲愴な叫びを、われわれはインターネットを通じてmp3ファイルで聞くことができる。
 
 反戦平和運動の世界的な高まりと莫大な軍事費の消耗、サイゴン陥落の予兆などが、ベトナム撤退を大統領に決意させたが、そのラディカルな平和運動を下支えしたアメリカ全土での市民レベルの厭戦気分(息子を還せ)は、通話回数などに関する公の統計データこそないものの、太平洋を越えて家族のもとに接続された無数の軍法違反のホット・ラインによるところが大きいとも言われている。アメリカ軍がアフガニスタンとアラビア半島でのハイテク戦を経て、軍事用回線のデジタル暗号符号化を急速に進めたのには、音声品質の向上や傍聴のリスク回避に加えて、インドシナ半島でのインサイダーによる情報漏えいの失態を繰り返すことを恐れたという理由も少なからずあるだろう。皮肉なことに、AT&Tやベル研究所が開発したそれらデジタル音声通信技術の基盤研究を行ったのは、九死に一生を得てベトナムから大学へ戻ることのできた学生や研究者であった。

 電話による世界初の通話の内容は何だったか。1876年3月10日、電話機の発明者グラハム・ベルが、壁ひとつ隔てた隣室の助手に向って言った。「ワトソン君、すぐにこちらへ来てくれたまえ」。実際には、実験中のベルが誤って希硫酸を足もとにこぼしてしまい、慌てて叫んだ声が、特許をとったばかりの電話機を通じてワトソン助手に聞こえただけ。通話どころか、人に助けを求める悲鳴だったのである。その声が、電気信号に変換されて本当に受話器から聞こえたのか、それとも薄壁を通して隣室に響いただけなのか、真偽は定かでない。その日ベルの実験室で起きた小さなパニックから、助けを乞う・それに応じる、という行為の照応関係だけをすくいあげるならば、物理的な真実はいずれであってもかまわない。

 この伝説的な逸話は、電話というメディアの本質をよくあらわしている。“ここにはいない人の声を聞く機械”である電話は、話をする、あるいは情報を伝えるというより、人を召喚すること、互いの生を確認しあうことをその本領とする。だから、それの発揮を阻害する規則や手順やシステムは排除するか掻い潜る、さもなくばそれらをわが手の支配におくしかない。生の共鳴~あなたの声を聞きたい~にとって理不尽な障壁のあるところ、万人がハッカーたりうる所以である。

(この項未完)

safe-distance described by whispering “partnership”

 収奪されたビデオテープの物語 (未完)

 ボスニア・ヘルチェゴビナ紛争のさなか、旧ユースラビアの領土内に墜落したNATO軍の爆撃機から、1本のビデオテープが地元の人々によって回収された。ここに上映するのは、その映像から約30分間の抜粋。タイトルと字幕はkuda.org[後述]が付した。画面に映るのは、飛行高度や姿勢などを表示するコックピット内の電子計器、音声は基地や友軍機と交信する兵士の声である。ビデオの冒頭しばらくして地対空ミサイルの接近が警告され、基地からの支援をうけて退避行動を試みるが、逃げ切れずに着弾または至近爆発の影響を受けた。つぶやきのような独り言が徐々に増し、息遣いが荒くなっていく。その音声を聞きながら、以下の解説をお読みいただきたい。

length = 31min.

safe.distance :: kuda.org from bacteriasleep on Vimeo.

 
 ← 動画からのピクトグラム(クリックで拡大)

 国連安保理事会未承認のまま始まった多国籍軍による紛争鎮圧活動のさなか、ユーゴで2番目に大きな都市ノビ・サド周辺の施設を爆撃するために、イタリアの基地から4機の航空機が飛び立った。任務を完了して帰途についたそのとき、地上からの反撃にあって一機が被弾する。爆撃機はユーゴ東部スレム郡のフルスカ・ゴラ山中に墜落し大破したが、航行履歴と任務の遂行状況を記録した8ミリビデオテープ(ソニーが開発した家庭用ビデオ録画方式)が機体の残骸から見つかり、何人かの仲介者を経て、ノビ・サドに拠点を置くメディアアート・センターkuda.orgの手に渡った。テープには、地上のターゲットへの攻撃から対空砲火による被弾、救助の要請、そして墜落までのプロセスがすべて記録されている。
 
 kuda.orgは、この映像と音声をデジタル・データ化して自身のwebサイトで公開、「safe distance」と題する映像ソースとしてダウンロードできるようにした。パイロットどうしは地口のような戦術用語を使ってやりとりするため、サイトでは彼らが使用している用語の解説も掲載している。

 

2003年3月、kuda.orgへの電子メールによるインタビューから;
「湾岸戦争の映像とそれをめぐる言説についてふりかえる」

[省略]

森岡 湾岸戦争の苦い教訓を再学習しなくてはならないと思います。東京のテレビで何度私は耳にしたことでしょう。「兵士は血を流さずビデオゲームの仮想現実で戦争をplayしている。しかし、映像の向こうには傷ついた気の毒な人間がリアルに存在することを忘れてはいけない」 … 警句のつもりなのか、それともメディア人として非力を取繕っているのか、いずれにせよ、完全に報道統制された全世界のテレビメディアを通じて、いったい何億の人がこの呆け言を聞いたことか。陳腐なシミュレーショニズム批判は、日本でも開戦当初からメディアおかかえの政治学者やテクノロジー音痴の文芸評論家のクリシェとなっていました。そしてボードリャールさえもが、そのメディア自身の空疎な安全保障に加担したようなところがある。

kuda.org  問題は、それを実際に発話しているのが人形なのか腹話術師なのかということです。ミサイル弾頭部の搭載カメラ映像や砂漠の闇に展開するイラク軍戦車を的確に撃破する赤外線画像、作戦行動から直接に生じる一次情報を部分公開(カットアップ)することで、プレスルームの将軍たちはビジネス・プレゼンテーションのような戦況報告をやってのけました。あまつさえ各国のメディアは、それらの映像をそのまま報道番組のソースにする(リミックスする)しかなかった。自前のソースといえば、地対空砲火の美しい光条で天空を彩るバグダッド夜間空爆の遠目の映像だけ。トマホーク・ミサイルのターゲット・データには絶対入っていない、ホリデーインのベランダからのふ抜けたライブ中継。あの腹話術的な共犯関係をこそしっかりと記憶すべきなのです。
 ところで、中世ヨーロッパの戦場を描いた画家たちは政治に対してとても正直でした。参戦した各々の国は、自国の利益に叶うように戦のプロセスを表現した。同じ城の同じ攻防戦について幾様にも絵が描き分けられたのです。複数の絵画表現によって栄誉という戦勝品の分配を行った。この事情は20世紀末、東西冷戦構造の終結まで続きます。
 しかし、先に送ってくださった英文の論文でガタリとネグリを引きながらあなたが分析されていたように、あの戦争では、当事国を含む全世界が、“帝国”から賜るハイパー・リアルな戦争画しか掲げることができなかったのです。“選んではいますが、ウソではありません。さりとて何事かの意味を押しつける気もありません。オープン・ソースですから、コモンズですからご自由に料理なさってみては?”という物分かりのよさ。この態度と先の警句とは完全に対になっています。ソースを公開し強引に共有させることで、相手の批判的行動を抑制する術を彼らは得た。アメリカ軍の戦術家たちは、いってみればバロウズの小説作法やDJのスクラッチを情報戦の軍事技術として盗用したのです。

森岡 それは9.11までのことでしょう。WTCの崩壊映像は、湾岸戦争で世界のリファレンスたる戦争画の描き手を自負したアメリカのアトリエ、その内懐にいきなグラフィティ・アーティストが闖入しなぐり描きをやってのけたのですから。敵の想像力が、内陣の統治空間へ直接に写像されてしまった。しかも、「CGか実写か一瞬わからなかった」とか「ハリウッドのスペクタクル映画を見ているよう」といった“崩壊の映像”への印象譚が露にしているように、イメージの支持体はまさにアメリカ的な様式をしています。バクダット駐留軍が経験しているような、少年の単独自爆テロというイスラム様式の凄惨な絵柄ではない。
 最後に、safe distanceについて留保しておきたいことは何かありませんか?というのも、あなたがたは、これを利用したビデオ・インスタレーションを制作し、ウィーンやベルリンで展示しました。けれども、この種の希少性を孕んだ映像が、例えば「ファウンデッド・フィルム(見出された映像)」と呼ばれる戦後実験映画史の疑似学術的な解釈枠や、1980年代的なサンプリング・アンド・リミックスの文化モード等々に再回収されることを望んでいるわけではよもやないでしょう?

kuda.org その通りです。最初の展示を行ったときから、すでに誤解をする人がいたのですが、あの画像と音声はあくまで「収奪品」であり、政治的、芸術的なプレテキストではありません。「戦争のプロセスを知覚すること」こそがあれらのインスタレーションの目的なのです。あなた自身が論文のなかで指摘していたではありませんか、インスタレーションとは祭壇のレイアウトであると。収奪して供物となった物や図像の一つひとつの象徴性ではなく、その「配置の知覚」こそが宗教的・政治的proje(投企)を可能にする空間を生み出し、観客の身体がそこに繰り延べられていくのだと。あなたは仏教徒ではなくてカトリックなのですか?いや、冗談ですよ。ともあれ、あなたの分析は的を射ています。わたしたちが作品で見せたかったのは、反戦思想とか戦争の悲惨さではなく、まさに計器ディスプレイに「レイアウトされた戦争」の知覚なのです。

森岡 質問のメールに何度もていねいに答えていただいたことを感謝しています。いつか、ぶどう酒か日本酒の香りをともに楽しむ機会を、地球のどこかでつくりましょう。

(この項未完)

a geiger counter made in USSR

旧ソ連軍のガイガー・カウンター (未完)
ヨーロッパのメディア・アクティヴィストが引継いだ東西冷戦構造の遺産

 

 
 1986年4月26日深夜に起きた第4号炉の炉心溶融と爆発から3週間が過ぎ、ヨーロッパ全域とソ連邦、とりわけウラルから黒海沿岸にかけての地域では、人体への直接の影響のほかに、飲料水や食品などの汚染が風評として様々なかたちで粉飾されて広まり、人々の暮らしと生の根拠そのものが強い疑念と漠然とした不安の淵にあった。各国の政府系機関に加え、いくつもの大学や民間研究機関が、人類史上未曽有の高レベル放射性物質の広域拡散状況を客観的に把握すべく、独自に調査を行いデータの公開を始めた。しかし、事故の翌日1100km離れたスウェーデンの原発でチェルノブイリからの放射性粒子が検出され疑念が抱かれるまで、ソ連政府が事故の発生と被害状況を隠蔽しようとしたこともあって、生鮮食品の高騰、農産物と観光資源への国際的な倦厭感による経済的打撃、汚染除去対策の遅れに対する国民からの批判などを回避するため、政府や大企業が情報統制を行っているという噂さえもが広まりつつあった。

 ハンガリーのブダペストを中心に旧東欧諸国で活動していた非政府系組織IHAは、ウィーン、パリ、ベルリンからかけつけた3人のメディア・アーティスト、プロジェクトの趣旨に賛同した通訳のウクライナ人留学生と病院の放射線技師、計5人で構成する調査旅団を編成し、一路チェルノブイリ市のプリピャチを目指した。彼らには、1週間分の乾燥食料とプラハ郊外の農村の深い井戸から汲んだ水、有機ヨード(甲状腺への放射性ヨウ素の吸収を妨げるとされる)、バッテリー駆動の小型ファックスと短波無線通信機、そしてここに展示するソ連製のガイガーカウンター(放射線量計)が手渡された。出発直前になって、2人目のドイツ人映像アーティストが同行を申し入れたが、パートナーのいる若い女性で将来に子供をもうけることを望む人であったので、5人はこれを拒否したという。

 同年5月末にブダペストを発ち、鉄道、路線バスなどを乗継ぎ、ソビエト領内では検問から逃れるため、データを集めながら農地や森林の中を徒歩で進み、出発から10日をかけてキエフに到達したものの、軍と警察による厳しい通行規制のため同市以北には移動できないと判断。IHAと交流のあった作曲家の自宅に滞在しながら、その活動と密入国が警察に発覚して国外退去を命じられるまでの約1ヵ月間にわたり、周辺の村々をめぐって河川や井戸の水、農地の土壌、自生植物、生育中の野菜、家畜飼料などの被ばく線量を測定した。

 「ヴォイド(空隙)」と名付けられた一連のロー・データは、作曲家宅からアマチュア無線の電波ファックスで逐次ブダペストに送られ整理されたのち、スラヴ語群の諸言語のほか、ドイツ語、フランス語、イスラム語、スペイン語、英語の趣意文を付して「チェーン・リアクション(連鎖反応)」と題するニューズ・レターに編纂。世界各地のアーティスト、美術評論家、社会活動家、メディア研究者に国際電話回線によるファックスで配信された。趣意文には、それぞれの地域の政府とマスメディアが発表する数値との異同を確認し、何らかの気づきと判断があるならば、次のアクションを起こしてほしいとあった。また、知人などにファックスを再送信する際には、データから喚起される“熱いヴォイド”のイメージを自分の言語で詩に託し、ファックス用紙に加筆するというアート・プロジェクトの提案も記されていた。

 装置は、1990年代末に組織を解散しオフィスが閉鎖されるのを機に、以上の逸話とともにIHAの主宰者(その後S.ジジェクの影響を受けてハーグでラカン派の精神分析医となる)から森岡がウィーンで譲り受けた。ドイツ経由で日本に持ち帰るおり、フランクフルト空港警察隊に危険物持ち込みの嫌疑をかけられ、通常の手荷物検査とは照射レベルの違う強力な軍用X線透視装置でチェックを受けたため(?)、現在は中枢の電子部品である計数管が正常に動作しなくなっている。

(この項未完)

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about this museum

Expo'70大阪万博のお土産からチェルノブイリ原発事故の被ばく観測に使われたガイガーカウンターまで、過去40年ほどのあいだにもらった・買った・拾った20世紀の遺産。「まだ終わっていませんよね?20世紀って」というのがあるようなないような開設理念です。コレクションどころか、ひどく些末な個人史の痕跡のようなものを含みますが、とりたてて区別はしていません。
「戦争と強制収容所と飢餓を経験しなかった20世紀人」として、戸惑いと自己嫌悪と根拠のない郷愁を支えに、それでも、自身の20世紀アーカイブを編みはじめてみようと思います。何のために? おそらくは、20世紀精神への崇敬と憎悪と鎮魂を通してのみ綴りうる、「此処に在る21世紀の日々」への批評のために。
なお、展示する写真は、高解像度のファイルを含めてすべてCCライセンスとする予定です。詳細は後日説明文を掲載します。
 
2010年8月
森岡 祥倫

★当面20点の展示を目標に、WordPressの学習をかねて、現在は仮開館しています。テキストはすべて未完とします。
★個別対応する時間がないので、しばらくのあいだコメント投稿は閉鎖させていただきます。あしからずご了承ください。
プロフィール | 『反食文化ノート:フード+アート+サイエンス』(準備中) | 『アート&テクノロジーの歴史 WEB版』(暫時更新中) | 東京造形大学・メディアデザイン専門部会 | 東京造形大学